雪こそ降らなかったものの、とっても寒い一日でした。
駅の周りの道路が、凍っていました。
あんなの見たの初めてです。
滑らないように、気をつけて歩きました。
近所で、空き地となっていた場所、入居者募集の貼り紙が長い間貼ってあったビルが、次々と老人介護施設になっていました。
超高齢化社会は、始まっており、いくらでも需要はあるのかもしれません。
私たち60代が、介護施設に入居を考えるころ、はたして介護施設に空きはあるのでしょうか?
現在は、高齢者向けマンション、サービス付き高齢者向け住宅、老健、特別養護老人ホーム、グループホームなど様々な終の棲家があります。
自分がどの程度、壊れてしまうかによりますが、最後まで自宅で過ごしたいと願う方が、やはり多いと思います。
私の母も、本当は最後まで自宅で過ごしたかったのだと思います。
老人ホームに入るくらいなら死んだ方がまし
今は亡き母がよく言っていました。
母がまだ脳も身体も元気なころ、近所の友人たちが次々と老人ホームに入居していったことがありました。
それを見て、いつか私も老人ホームに入れられてしまうのだ、明日は我が身だ!と戦々恐々としていたのです。
母は、父が建てた二世帯住宅が大好きだったのに、残念ながら、手放すことになりました。
まだまだ住める家を、目の前で壊されることになったのです。
兄も母も悔しかったと思います。
結局、実家は瓦礫の山となったため、母の居場所はなくなるという切羽つまった状況になり、施設に入れることにしました。
親を施設に入れる罪悪感もはありました。
探しだしてすぐに、とてもいいサービス付き高齢者住宅がみつかりました。
妹の自宅から、自転車で15分くらいの場所で、都内では費用は安めの所です。
申し込んで半年くらい待ち、入居できることになりました。
その時は、母がかわいそうで仕方ありませんでした。
泣きわめくのではないか?
心配しながら、私は母へ、施設入居を進めました。
妹の家の近くだということもあり、母は意外にあっさりと承諾しました。
当時はまだそんなに認知症は悪化していなかったのですが、入居してからが大変でした。
帰りたい
寂しい
私は捨てられた
死にたい
このような悲観的な言葉のオンパレードで、母は毎日泣いて暮らしていたようです。
そして老人性うつ病がひどくなってしまいました。
母は、サービス付き高齢者住宅で、幸せなふりをしていたのではないか?
誰でも知らない土地、知らない場所で暮らすのは大変なことです。
なれるまでは、本当に時間がかかりました。
本当の所、母はあきらめたのだと思う。
いくら泣きわめいても帰る家はなかったのですから。
「友達ができた、ディサービスは楽しい、食事は美味しい」
そんなことを言うようになり、私たち子どもは安心したものです。
今になって思うのは、母は私たち子どもの前では、幸せなふりをしていたのではないか?ということです。
認知症がすすんでいった母は、表情が無くなり、笑わなくなりました。
そこから弱っていくのは、本当に早かったと思います。
私も、どこかの施設に入ることになったら?
どんなに寂しくても、子供の前では幸せなふりをしてしまうかもしれません。