介護

お彼岸の最終日に、87歳母が天国へ旅立ちました




お彼岸最終日の昨日、何だか胸騒ぎがして、朝5時に目が覚めました。
日曜日で仕事はお休みだから、教会へは行かずに母に会いに行こうかとぼんやり考えていました。

9時過ぎにうつうつしていたら、妹からライン。
電話もあったようですが、無音にしていたので気が付かず。

「お母さんが急変したから」その文字を見て動揺するも、とにかく早く行かなければと慌てて準備を始めたところ、20分後には亡くなったと連絡がありました。
すぐに妹へ電話をし、二人で号泣。

母の旅立ちは、兄も妹も私も間に合いませんでした。

妹は土曜日に会いにいっていたのですが、もう話すことも難しくなっていたと聞いていたのですが、まさか次の日の朝に逝ってしまうとは思っていませんでした。
お彼岸の間に父が迎えにくるのでは?と思っていた通り、本当に最終日に逝ってしまいました。

すぐに母がいる特別養護老人ホームへと向かいましたが、電車の中でいろいろなことを思い出し、涙があふれ止まらなくなってしまいました。
最寄り駅からはタクシーでかけつけると、兄夫婦と妹夫婦がすでに到着していて母の身体を拭いてあげたところでした。

母は自分の部屋の自分のベッドで安らかな顔をして横たわっていました。
母の部屋に入れたのは入居以来5カ月ぶりでした。

一週間前に会った時よりも、さらに痩せていて、腕や足はごぼうのようでした。

本当に死んじゃったんだと母の顔を見たら、また涙があふれて止まらなくなってきた。

先に到着していた兄夫婦と妹夫婦が打ち合わせのために、部屋を出ていくと、私は母と二人きりになったので、いろいろと話しかけました。
やっぱり一番は育ててくれてありがとう、そして認知症の恐怖、大腿骨骨折からの寝たきり生活によく頑張ったねと声をかけた。

昨年のお正月には妹夫婦と私と私の子供たち、妹の子供と藍屋にご飯を食べに行きました。
あの時、母は私のお刺身をちょだいと言ってとって食べていた、子供にかえってくように感じたのを覚えています。

あれがみんなで会食は最後となり、コロナウイルスの流行が始まってしまいました。
面会は制限され、会えない日が続きました。

病院介助は許されたので、その時は会えたけれど、母は会うたびに表情がなくなっていき言葉も少なくなっていった。
コロナのせいで、外出もままならなくなり、母はあの個室で、寂しい毎日を過ごしていたのだと思います。

そして12月の初めにベッドから落ちて大腿骨骨折です、たぶん筋力も相当おちていたのだと思う。
それから母は入退院を繰り返し、徐々に衰弱していきました。

結局の死因は老衰です、自然死ともいいます。
内臓の老化から、嘔吐することもあり、しだいに食べられなくなり、最後は飲み込む力もなくなっていきました。

入院して点滴を受ければ。多少の延命はできたと思いますが、母はもう回復することはないという医師の診断から、延命治療は選択せずに看取りケアを選びました。

看取りケアをスタートし、母は約一か月頑張りました。

認知症母半年で救急搬送3回、延命治療は希望しません
毎日よく救急車をみかけます。 コロナが蔓延して、常連のお客様の中にも、買い物に来られなくなった方もたくさんいらっしゃいます。 終わりの見えないコロナ騒動に、心も重くなります。 私の母も、昨年一年で急激に認知症が悪化...

しばらく会えていなかった叔母たち、孫6人と、ひ孫まで会うことができました。

残念なことにコロナのせいで、面会は1人10分までと決められていたので、部屋でゆっくり話すことは不可能だったのです。
たったの10分でも、会えること、そして手を握ることができて、よかったと思います。

少ししてから、特別養護老人ホームへ葬儀屋さんが迎えに来て、母は白い布にくるまれた。
そして母の大好きな五木ひろしの音楽を館内に流してくれて、施設の方々大勢が一列に並び、母を見送ってくれました。

ここでもまた涙涙です。
母が過ごした最後の場所がとても素敵な場所で、みなさん良い方ばかりで、本当に良かったと思いました。

葬儀は家族葬で、水曜日に行われます。
喪主は兄。

今日、私は母を失った喪失感の中、仕事に行ってきました。
仕事をしている時はいいけれど、この部屋に帰り一人になると、また寂しさに襲われています。

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