おひとり様の老後

母は、サービス付き高齢者住宅で幸せなふりをしていたのかもしれない。




雪こそ降らなかったものの、とっても寒い一日でした。
駅の周りの道路が、凍っていました。
あんなの見たの初めてです。
滑らないように、気をつけて歩きました。

近所で、空き地となっていた場所、入居者募集の貼り紙が長い間貼ってあったビルが、次々と老人介護施設になっていました。
超高齢化社会は、始まっており、いくらでも需要はあるのかもしれません。

私たち60代が、介護施設に入居を考えるころ、はたして介護施設に空きはあるのでしょうか?
現在は、高齢者向けマンション、サービス付き高齢者向け住宅、老健、特別養護老人ホーム、グループホームなど様々な終の棲家があります。

自分がどの程度、壊れてしまうかによりますが、最後まで自宅で過ごしたいと願う方が、やはり多いと思います。
私の母も、本当は最後まで自宅で過ごしたかったのだと思います。

老人ホームに入るくらいなら死んだ方がまし

今は亡き母がよく言っていました。
母がまだ脳も身体も元気なころ、近所の友人たちが次々と老人ホームに入居していったことがありました。

それを見て、いつか私も老人ホームに入れられてしまうのだ、明日は我が身だ!と戦々恐々としていたのです。
母は、父が建てた二世帯住宅が大好きだったのに、残念ながら、手放すことになりました。

消えた老後資金、母の預金一千万円は瓦礫の山になりました。
11月だというのに、暖かい一日でした。 ここ何日か、猛烈な寂寥感に襲われています。 息子がいるのに、寂しい。 仕事していても、私は孤独だとふと思ったり。 このような原因不明の寂しさは時々襲ってきます。 今日...

まだまだ住める家を、目の前で壊されることになったのです。
兄も母も悔しかったと思います。

結局、実家は瓦礫の山となったため、母の居場所はなくなるという切羽つまった状況になり、施設に入れることにしました。

親を施設に入れる罪悪感もはありました。

探しだしてすぐに、とてもいいサービス付き高齢者住宅がみつかりました。
妹の自宅から、自転車で15分くらいの場所で、都内では費用は安めの所です。

申し込んで半年くらい待ち、入居できることになりました。
その時は、母がかわいそうで仕方ありませんでした。

泣きわめくのではないか?

心配しながら、私は母へ、施設入居を進めました。
妹の家の近くだということもあり、母は意外にあっさりと承諾しました。

当時はまだそんなに認知症は悪化していなかったのですが、入居してからが大変でした。

帰りたい

寂しい

私は捨てられた

死にたい

このような悲観的な言葉のオンパレードで、母は毎日泣いて暮らしていたようです。
そして老人性うつ病がひどくなってしまいました。

母は、サービス付き高齢者住宅で、幸せなふりをしていたのではないか?

誰でも知らない土地、知らない場所で暮らすのは大変なことです。
なれるまでは、本当に時間がかかりました。

本当の所、母はあきらめたのだと思う。
いくら泣きわめいても帰る家はなかったのですから。

「友達ができた、ディサービスは楽しい、食事は美味しい」
そんなことを言うようになり、私たち子どもは安心したものです。

今になって思うのは、母は私たち子どもの前では、幸せなふりをしていたのではないか?ということです。

認知症がすすんでいった母は、表情が無くなり、笑わなくなりました。
そこから弱っていくのは、本当に早かったと思います。

私も、どこかの施設に入ることになったら?
どんなに寂しくても、子供の前では幸せなふりをしてしまうかもしれません。

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